良成さんの蝉の歌
夏も終わりにちかづいて蝉の鳴き声も焦りを帯びて聞こえる。
それを聞きながら佐藤良成さんを思い出す。
良成さんはよく「やあ」という。
メールにもよく「やあ、元気?」と書かれている。
いまどきの若者はあまり「やあ」とは言わない。
私の知り合いでも、過去一人、大学院でであった
ギターを弾く同じ専攻の男の子がいたきりだ
(良成さんもギターを弾くがギターと「やあ」とはあまり関係ないだろう)。
「やあ」と言われると、何故だろう、その人がどこかから
はるばるやってきたような不思議な風が一瞬流れる。
その人が長い旅をしてきて、ひょっこり私と出会う。
そんな喜びがある。
おそらくすでに「やあ」は古い言い回しに入るのだと思う。
特に同年代の男の子に言われると不思議な気分になるのだ。
時空を超えて「やあ」という言葉が私の目の前に現れたような、新鮮さがある。
その感覚は嫌いではない。
良成さんは何となく浮世離れした感じがする。
それは去年のクアトロライブのとき、彼がリハーサルのとき
着て歌っていたポンチョのせいかもしれない。
良成さんはポンチョが良く似合う。
ポンチョをきて暑そうに歌う良成さんをぼんやりみていると
ああ、この人は長い旅を経てきたんだ・・とピアノの前に座りながら私のほうが
勝手に非日常の空想世界に入り込んでしまったほどだ。
そのクアトロライブを控えていたある日、
ゲストとして出てもらうお願いをしようと、
下北沢で毎週開かれている彼のソロライブに顔をだした。
そのとき良成さんが歌っていた新曲のなかにあったのが蝉の歌だ。
蝉のはかなさに思いを寄せるとか、蝉の鳴き声に夏を思うとか
そういうよくありそうな歌ではない。
良成さんが蝉の気持ちを代弁した歌だ。
歌う良成さんは蝉の化身のように見える。
そう書くと聴いているほうも、ちょっと笑みがこぼれるというか
面白い歌だな、と肩の力ぬいて聞ける曲のように思えるが
この蝉の歌はそんな軽い歌じゃないのだ。
当の私がそういう軽い気持ちでその歌を聴き始めて、
終わる頃にはすっかり感激して心が震えてしまった。
良成さんに見えている世界の鮮やかさがどっと私の中に入ってきた感じがして、
クアトロでは是非蝉の歌を歌ってくださいとお願いした。
当日良成さんが歌ってくれなかったのは、多分10月も終わりのクアトロライブだったからだろう。
そう、浮世離れと書いたけれど良成さんは別の世界からやってきた人のようだ。
ふうわりつかみ所がなく、蝉の歌を歌ったりオタクの歌を歌ったりする。
でも、彼の目はこの世をしっかと見据えている。
時たま射抜くようなまなざしは観察者のそれである。
多分良成さんは今日もどこかで「やあ」と片手を上げて
笑いながら、この世界をじっと見つめては
蝉の歌のような傑作を音に紡いでいるはずだ。